オイルショックと低成長期

石油危機1971年のニクソン・ショックの後、ふたたびドル危機が訪れると、固定相場制の維持ができなくなります。1973年、日本を含む先進各国は変動相場制に移行しました。

時期はさかのぼり1972年、佐藤内閣に変わり田中角栄内閣が発足します。田中角栄元首相は日本列島改造論を打ち出します。

日本列島改造論

日本列島改造論は、田中角栄による以下のような主張です。(著作名でもあります)

  • 日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ
  • それにより地方の工業化の促進、過疎と過密を解決
  • そのころ深刻化していた公害問題も同時に解決
  • 日本の北部を工業地帯に、南部を農業地帯にすべき

田中角栄は新潟出身であり、豪雪地帯の貧困解消は彼の悲願だったといわれています。北部を工業地帯にという部分は、建前はアメリカやイタリアがそうだからとしていますが、単に田中の地元が新潟で日本の北部に該当するからと思われます。

日本列島改造論は、従来の政策を上回る超高度成長政策でしたが、開発の候補地とされていた地域で土地の買占めが行われ地価が急上昇、さらにその影響で物価が上がりインフレとなりました。

また、日本列島改造論の柱である新幹線をめぐって、候補となった地域の国会議員が誘致活動などを展開しようとした矢先にオイルショックが発生、1973年には物価高が深刻な社会問題となります。

オイルショック(石油危機)

1973年10月、第四次中東戦争が起き、OPEC(石油輸出国機構)加盟中のペルシャ湾岸の産油国が、原油公示価格を70%引き上げることを表明します。

さらにOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油生産の削減を決定、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ・オランダetc)への石油輸出の禁止を決定しました。

OPECによる値上げの表明は2度行われ、最終的に1バレル3.01ドルから11.65ドルまで引き上げると決定されました。

石油価格の大幅な上昇は、エネルギーを石油中心としてきた先進諸国の経済に大きな影響を与えることとなります。ニクソン・ショックから回復の兆しを見せていた日本経済にも大打撃を与えました。

列島改造ブームによる地価上昇ですでに急速なインフレが発生していたところに、オイルショックでさらに便乗値上げが起きインフレが加速、1974年には消費者物価指数は23%上昇し、これは狂乱物価と呼ばれました。

政府はインフレ抑制のために公定歩合の引き上げを4度行うなどして、企業の設備投資の抑制・物価の安定を図りましたが、たいした効果が得られず失敗に終わります。

1974年、成長率はマイナス1.2%を記録し、それは高度経済成長の終焉を意味しました。(戦後初のマイナス成長)

オイルショックの影響で、トイレットペーパーの買占めやデパートのエスカレータの運転中止など、意味不明な社会現象も起きました。また、優良企業は銀行離れをはじめました。これまで主流だった間接金融から株式発行などの直接金融へシフトし、内部資金依存するようになります。

このオイルショックを契機に、先進諸国は慢性的なスタグフレーション(不況でしかもインフレ)に悩まされることになります。景気回復のために財政政策を行おうとするとインフレが進み、インフレを抑えるために金融引締めなどの景気抑制策を取ると不況がさらに悪化してしまうというジレンマに立たされるという状況です。

上記のジレンマに、石油価格の高騰による経常収支の大赤字も加わってトリレンマ(三重苦)などとも言われるようになりました。先進7カ国の首脳はこの事態を打開するためにサミットを毎年開くことになりました。これはG7(Group of 7)と呼ばれ、フランス、アメリカ、西ドイツ(ドイツ)、イタリア、日本、カナダ、イギリスを指します。後に米大統領のクリントンの示唆によりロシアが加わりG8になります。

1974年12月、田中首相は金脈問題で総辞職、三木武夫が自民党総裁となり、三木内閣が組閣されることとなります。

日本政府は不況からの脱出のために1975年度以降、毎年のように赤字国債を発行するようになります。あらゆる企業は輸出へシフトし、ロボットなどの開発により生産の自動化が進みます。さらにパソコン、ファックス、ワープロなどのOA(オフィス・オートメーション)機器が導入され、産業の形態が少しずつ変化していきます。そんな中で景気は1978年あたりから回復しはじめました。

第二次オイルショック

1978年、OPECが「翌年から原油価格を値上げする」と決定しました。さらに1979年、イラン革命が起き、イランでの石油生産が中断。結局原油価格は前回のオイルショック並みに上昇し、イランから大量の石油を輸入していた日本には大きな影響があると予想されました。

しかし、第一次オイルショックで学習していた日本はスタグフレーションには陥りませんでした。

原油の備蓄量は前回オイルショックの二倍ほどあり、民間の労働組合が賃上げを自粛するなどの対策が功を奏し、諸物価へのインフレ波及は免れます。

また、製造業は生産面で省石油、省エネルギーを進めており、輸入によるインフレ圧力を企業の内部で吸収、軽減させることができました。

最終的には値上げはそれほど長引かずに、イランも石油販売を再開、数年後には価格下落に転じて、危機は免れました。

第二次オイルショックは、日本企業の経済の適応力の高さを世界に印象付けました。

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