岩戸景気と日米安保改定

岩戸景気

日米安保1958~1961年の好景気を岩戸景気といいます。景気拡大期間は神武景気の31ヶ月を超え、42ヶ月に達しました。

岩国、新井浜、四日市、川崎に巨大なコンビナート(計画的に結び付けられた企業集団・工業地域のこと)が形成され、日本は重化学工業を発展させていきます。また、生産技術は急速に進歩し、行程の高速化に成功します。

岩戸景気によって、若年サラリーマンや労働者の所得が一気に上がり、中流階層がマジョリティとなります。中流家庭は大量消費社会を作り上げる土台になりました。大量生産、大量消費の時代となり、スーパーマーケットなどの大型店舗が出現し、流通の構造が大きく変わりました。また、好景気と平行して電化製品ブームが続き、ステレオや応接セットなどが中流以上の所得世帯に普及していきます。

岩戸景気は「投資が投資を生む」過剰な投機熱による技術革新によって支えられ、また設備投資が景気を引っ張り、順調に発展しました。企業の設備投資が別の企業の設備投資を招いたのです。

1960年、池田勇人首相は所得倍増計画を打ち出し、日本経済は予想以上の成長を遂げますが、1960年度末には安定していた物価も上がりはじめ、景気も後退していきます。神武景気と同じく、インフラの遅れなどによるボトルネック現象と金融引き締め策の発動によるものです。(この不況も軽微なものでした。)

日米安保改定

岩戸景気のさなかに大きな事件がありました。1960年の日米安保の改定です。

1951年、吉田茂首相によって米国との間に安保条約(旧安保条約)が締結されます。この条約は日米間の同盟の根幹となる条約で、1960年ワシントンで改定されました。改定されたものは60年安保と区別されて呼ばれることもあります。日本とアメリカの安全保障のために在日米軍の駐留を認めるなどの内容となっています。

日米安保にはさまざまな議論がありますが、日本が国土の防衛をアメリカに一任できるようになったことで軍事費を抑え、経済政策に優先的に配分可能となったという側面は無視できません。そういった意味で、池田内閣の所得倍増計画は日米安保ありきの政策でもあります。

国民所得倍増計画

池田内閣による国民所得倍増計画は経済学者の下村治によって立案されました。

目的

  • 輸出の拡大によって外貨を獲得
  • それによって国民総生産(国民所得)を倍増させる
  • さらに完全雇用を目指し、生活水準を引き上げる
  • 農業や中小企業の近代化、経済的な後進地域の開発により、地域間・産業間における格差の是正を推進

結果は、計画開始1年目にして目標達成、その後も驚異的な経済成長率をたたき出しました。

オリンピック景気

1964年に東京オリンピックが開催されることが決まり、交通網の整備や競技施設が必要となりました。1963~1964にかけての好景気をオリンピック景気と呼びます。

東海道新幹線、首都高速、国立競技場、日本武道館などが整備され、建設需要が高まったことに起因します。オリンピックを見るためにテレビを買うなど付随する経済効果もありました。

オリンピックが終わると、特別な建設需要やテレビ需要がなくなり、不況(証券不況)がやってきます。

証券不況

オリンピックの翌年(1965)に、深刻な不況が訪れます。これは証券不況と呼ばれました。

成長を前提とした経営が行き詰まり、山一證券が赤字に、サンウェーブや日本特殊鋼が倒産、さらに山陽特殊製鋼が負債総額五百億(当時最悪)で倒産します。証券会社の決算は軒並み赤字となります。

山一證券を救うために日銀特融(無利子、無担保、無制限の日銀特別融資)が閣議決定されます。戦後初の赤字国債発行です。

この際日銀は国債発行をかなりためらったそうですが、結果的にはその後いざなぎ景気という好景気が到来し、高度経済成長は持続することになります。

※この証券不況の影響で、証券会社は登録制から免許制になりました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。