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Friday, August 18, 2017

ニクソン・ショックとプラザ合意

プラザ合意ブレトン・ウッズ体制は、米ドルを基軸通貨として為替の安定・自由貿易の推進により世界各国が相互に発展することを目指していました。

日本が奇跡的な経済成長を見せ、西ヨーロッパも順調に復興すると、国際競争力が相対的に上がっていきます。世界各国は輸出によって稼いだ米ドルを金にどんどん換えていきます。

一方アメリカは世界の警察として多くの軍事費を投入し、また共産圏の拡大を防ぐために発展途上国への経済援助費を増やしていきます。

多国籍企業は米国外へ投資をつづけ、膨大な米ドルが世界中に流出し、これらのドルも金に交換されました。

結局アメリカの保有していた金(ブレトンウッズ体制当初、世界の7割とも言われていた)は、大量に国外に流出し、金ドル交換の不安が叫ばれるようになりました。1960年代にはしばしばドル危機の声が高まり、ゴールド・ラッシュと呼ばれる金への投機が活発になる現象が起きました。

ニクソン・ショック

1971年8月15日、アメリカ大統領チャールズ・ニクソンは、それまでの固定比率によるドルと金の交換を停止することを突然発表します。これは、ブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味しており、国際金融の大幅な枠組みが変わるきっかけとなります。

この発表はアメリカ議会もしらなかったため、ニクソン・ショックと名づけられドル・ショックとも呼ばれます。

金との交換停止だけでなく「10%の輸入課徴金(輸入品に対して徴収される特別の関税や付加税のことです。輸入制限にもなります)の導入」なども同時に発表されました。

※ほぼ同時期(一ヶ月前)に発表されたニクソンによる中国訪問宣言と一連の北京での外交活動も合わせて、ニクソン・ショックと呼ばれます。中国訪問が第一のニクソンショック、ドル金交換停止宣言は第二のニクソンショックとされます。

スミソニアン協定

ニクソン・ショック後、同年12月にワシントンのスミソニアン博物館で各国の蔵相による会議が開かれます。

この会議でドルと金の固定交換レートは引き上げられ、ドルと各国通貨との交換レート改定が決定されます。このとき1ドル360円から1ドル308円へと円が引き上げられました。(通貨の切り上げ幅は日本が最大で、半ば強引に決められたといわれています。)

スミソニアン協定によってドルは大幅な切り下げとなり固定相場制は維持できたのですが、アメリカの貿易赤字は結局ふたたび増大。固定相場制への信頼はどんどん下がっていき、1973年には主要国ほぼ全てが変動相場制へ移行しました。

変動相場制

変動相場制とは、外国為替市場における通貨の需要と供給にまかせて為替レートを自由に決める制度のことです。フロート制ともいいます。

変動相場制移行後も、1970年代後半はドル安が続き、1ドル170円近辺まで円高ドル安となります。1980年代にはレーガン大統領により人為的なドル高政策が行われます。アメリカの長期国債には20%近い金利がつき、各国の機関投資家たちは群がるようにこぞって米ドルを購入しました。

ドル高政策により、アメリカの輸出は減退、貿易赤字は膨大な金額に達しました。レーガン大統領の一連の政策はレーガノミックスと呼ばれ、スタグフレーションからの回復を目指していましたが、急激な軍事支出の増加と減税は深刻な財政赤字と累積債務を生む結果となってしまいました。(※ただし、高金利により民間投資は抑制されインフレからの脱却には成功)

プラザ合意

プラザ合意とは、1985年アメリカのニューヨークにあるプラザホテルで行われたG5(日米英独仏)の蔵相・中央銀行総裁により発表された、為替レート安定化に関する合意のことです。

ドル危機の再発を恐れた先進国は、協調的なドル安へ誘導することで合意しました。アメリカの対日貿易赤字が著しかったため、実質的には円高ドル安を誘導する内容だったといえます。発表の翌日にはドルは1ドル235円から20円下落し、一年後には1ドル150円台となりました。

日本では、急速な円高による不況を阻止するために低金利政策が継続的に採られるようになります。この低金利政策は不動産や株への投機加速につながり、後のバブル景気の要因のひとつとなります。

ルーブル合意

ルーブル合意とは、1987年2月、フランスのルーブル宮殿でG7(G5+カナダ、イタリア)によってドル安の行き過ぎを是正するためになされた合意のことです。

しかし各国の同意がじゅうぶんではなかったためかドル安は止まらず、1995年には一時的に1ドル80円を切ることもありました。

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