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Monday, April 24, 2017

ポツダム宣言と占領下の日本

ポツダム宣言1945年7月26日、アメリカ、中国、イギリスの首脳が日本に向けてポツダム宣言を発しました。

内容は以下のような感じです。

  • 日本国領域内諸地点の占領
  • 日本の主権は、本州、北海道、九州、四国および我々が決定する諸小島に限る
  • 全日本軍の無条件降伏

日本政府はポツダム宣言の受諾を望んだものの、天皇制の是非についてその見解が連合国側で定まっておらず宣言内に言及されていなかったことから、政府内で激しい議論が巻き起こり、当時のマスコミは体制の維持と戦争の続行を煽る激しい口調の記事を書きました。結局ポツダム宣言は黙殺されることになります。

しかし、8月6日に広島市に原子爆弾が投下されます。続けて9日には長崎市に投下され、空前絶後の被害がもたらされます。

しかも同日に、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄、日本は突然「対ソ防衛戦」を余儀なくされます。(満州における日本の軍事力が著しく弱っていく一方で、ドイツ軍の敗退でソ連に余力が生まれたという背景があります。)ヤルタ会談(密約)において、アメリカがソ連に対日参戦を促しソ連がそれにこたえたというわけです。

日本政府は8月9日、国体の維持を条件にポツダム宣言の受諾を決め、10日、連合国に通告します。アメリカ政府は「降伏時以降は、天皇及び日本の国家統治の権限を連合軍最高司令官に従属すること」と回答(バーンズ回答)

8月15日の正午に日本政府はポツダム宣言の受諾と終戦の旨を国民に発表し、翌日軍隊に停戦命令が出されます。(宣言受諾後も、ソ連・中国との間で戦闘が続きました。日本軍の残党と中国軍・アメリカ軍の小規模な戦闘も。)

ポツダム宣言には言論の自由の確立など国民の自由と平和がうたわれていましたが、実際にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により検閲が行われ、言論統制が行われました。

占領下の日本

大戦中、連合国は日本の分割統治を計画していました。(東京は、アメリカ・中華民国・ソ連・イギリスによって、近畿地方はアメリカ・中華民国で共同統治といった格好)

しかし実際には天皇を利用したほうが統治が容易であるなどとして、日本政府を通じた間接統治が採用されました。結局、国家としての日本は残ることとなり、連合国の傀儡国家という状態になります。

領土の剥奪

台湾、朝鮮、南洋群島、関東州を失い、南樺太・千島列島が占領されました。

日本は大戦中に東南アジアを占領していた連合国(イギリス・オランダ・フランス・アメリカ)を追い出し代わりに統治していましたが、日本が敗れ、東南アジア諸国は再び連合国の植民地にに戻りました。

※しかし、日本の教育を受けた勢力もしくは抗日の独立指導者らによって各国で独立宣言が行われました。結局、宗主国との戦争を経てほとんどすべての国が独立しました。

財閥の解体

連合国側は、財閥が日本の軍国主義を制度的に支援したと考えていました。財閥を解体することで日本軍を根本的に壊滅させられるとの認識だったようです。大戦以前の資本化勢力を除去し、経済民主化を目的としました。

当時産業界を支配していた三井・三菱・住友・安田は解体され、多くの新しい企業が生まれました。

内容としては以下のようなものです。ただし、一部の財閥は後に元の形に戻りました。

  • 持株会社所有の有価証券、及びあらゆる企業に対する所有権・管理・利権を示す証憑(取引が行われたことを証明する書類)を、日本政府が設ける機関に移管する
  • 上記移管財産に対する弁済は、10年間の譲渡・換価を禁じた登録国債で支払う
  • 三井、岩崎(三菱)、住友、安田4家構成員、持株会社取締役・監査役の産業界からの追放
  • 持株会社は傘下企業に対する指令権・管理権の行使を禁止

(引用:ウィキペディア)

農地改革

農地改革は1947年、GHQ下で行われた政策で農地解放ともいいます。もともと日本政府はこの改革をやりたがっていたようです。地主たちの反発が大きすぎてできなかったことを、GHQ下にあることを利用して実行したというのが実情のようです。

農地改革により、政府は地主の農地を強制的に激安で買取り、小作人に売り渡しました。これは全国で行われ、7割の農地が地主から小作人に移りました。

この政策によって、日本共産党を支持していた多くの貧乏な小作人たちは保守系の政党を支持する自作農となり、共産党の理想郷を待つ必要がなくなりました。結果、共産党はその力を大きく失うこととなります。

農地改革により多くの農地が小作人のものになったことで、大規模営農ができなくなったという側面もあります。これにより、日本の農業は根本的に国際競争力をもてない構造に変わったとも言われています。

労働三法の制定

労働三法とは以下の三つの法律のことです。いずれの法律もそれまでの体制では実現が困難であったといわれています。

  • 労働基準法(強制労働の禁止、中間搾取の排除、労働者と使用者の立場を対等にするなど)
  • 労働組合法(労働組合の結成、使用者との団体交渉、ストライキなど労働争議に対する刑事上または民事上の免責要件など)
  • 労働関係調整法(大規模なストライキやロックアウトが発生して社会に影響を与えるような場合、労働委員会で裁定を行う)

傾斜生産方式とドッジ・ライン

闇市第二次世界大戦中の本土爆撃により、日本の都市の多くが焦土と化しました。

戦後は、駅周辺や人通りの多い広場の焼け跡に自然と闇市が開かれるようになります。闇市ではふかし芋や毛布、手袋やロウソクなどあらゆるものが売られました。

配給制がなくなると、都市の住民たちは農村へ行き、衣料などと食物を物々交換し、その日暮らしの生活を送ります。

日本政府(第一次吉田茂内閣)は、経済の復興のために傾斜生産方式を採用しました。

傾斜生産方式

1946年、吉田茂内閣によって傾斜生産方式が実行されました。(この政策はマルクス経済学の再生産表式をヒントに考案されたといわれています。)

傾斜生産方式とは、限られた資源と資金の配分を市場に任せず、計画的なものにすることで産業成長を速めることを目的とした政策です。

  1. 重油の輸入
  2. 鉄鋼を増産
  3. 石炭の増産(炭坑への鋼材の傾斜投入)
  4. 今度は再び鉄鋼を増産(石炭投入)
  5. この繰り返しで、石炭と鉄鋼の生産を相互循環的に増大させる

これによって縮小再生産を食い止め、日本経済に拡大の循環リズムをつけました。そして、さらにその効果が化学肥料やコメの増産など他の産業に波及するように、政府は補助金などで支援しました。

この政策は片山内閣にも引き継がれ、戦後すぐの混乱状態にあった日本経済は復興のめどを立てることができましたが、その後過剰な資金投入を生みインフレが加速してしまいます。

このインフレはモノ不足という背景も手伝って、かつてのドイツの深刻なインフレを思わせる勢いで進みました。

ドッジ・ライン

1948年、マッカーサーは吉田内閣に対して9原則の実施を要求しました。

  1. 急速に予算の均衡を図ること
  2. 徴税計画の促進強化
  3. 資金貸出を日本経済復興に寄与するものだけに厳重制限すること
  4. 賃金安定策の確立
  5. 現在の物価統制計画の強化
  6. 外国貿易管理の運営改善と外国為替管理の強化
  7. 特に輸出増大の為の物資割当および配給制を改善すること
  8. 全重要国産原料および製品の生産増加
  9. 食糧集荷計画の改善。

1949年、GHQの経済顧問としてデトロイト銀行の頭取であったジョゼフ・ドッジが来日し、財政金融の引き締め案を立案します。この案をもとにした金融引き締め政策をドッジ・ラインといいます。

ドッジは当時の日本経済を竹馬経済と評し、片方の足はアメリカの援助、もう一方の足は日本国内の補助金と例えました。援助額や補助金の額を上げる、つまり竹馬の足の高さを上げすぎると転んでしまう危険があると例えたのです。

ドッジ・ラインの内容は以下のとおりです。

  • 緊縮財政や復興金融公庫融資の廃止による超均衡予算
  • 日銀借入金の返済など、債務返済優先
  • 複数為替レートの改正。1ドル360円の単一為替レートに。
  • 戦時統制の緩和と自由競争の促進

結果としては、インフレは収まったものの今度は国内需要や輸出が停滞、そしてデフレが進行することになりました。

失業や倒産が相次ぎ、ドッジ不況といわれる安定恐慌に入ってしまいます。(東証の平均株価は史上最安値の85.25円を記録)

朝鮮戦争と特需

朝鮮戦争第二次世界大戦で日本が敗北したことで、朝鮮半島は日本による統治を終え、今度は北緯38度線以北をソ連に、以南をアメリカに占領統治されることになりました。

やがて米ソは朝鮮半島の統治を巡って決裂、それぞれの政府を打ち立てます。1948年8月に南朝鮮は大韓民国として独立、9月に北朝鮮は朝鮮民主主義人民共和国として成立し、韓国と北朝鮮は互いに朝鮮半島の主権を主張、その対立を深めていきます。

1950年、北朝鮮が韓国に侵攻し朝鮮戦争が勃発。アメリカ、ソ連、中国の人民解放軍が大きく加わり、この戦争は1953年まで続きました。(正確には現在休戦状態です)

戦火を逃れるために朝鮮半島から日本に流入(密入国)した難民は、推定20~40万人とされ、現在も日本に在留しているとされます。

朝鮮特需

朝鮮戦争に伴って、在朝鮮米軍、在日米軍から日本に発注された物資やサービスのなどの需要を朝鮮特需とよびます。

在日国連軍、外国の関連機関によるものは間接特需とされます。1950~52年までの3年間に生じた特需は10億ドル、55年までの間接特需は36億ドルに達したと言われています。

日本はこの時期に、敗戦によって立ち遅れていた技術を最新のものに更新、アメリカ式の大量生産方式を学びます。産業立国となるための重要なノウハウを作り上げ、特需により雇用を確保し、多くの外貨を獲得しました。

朝鮮戦争は日本の輸出増大を誘発し、日本の産業界の工場生産における転換期のひとつとなりました。また、その後の高度経済成長の基盤になったともいわれています。

サンフランシスコ講和条約と神武景気

サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)

サンフランシスコ講和条約サンフランシスコ講和条約とは、1951年9月アメリカのサンフランシスコ市にて連合国と日本の間で結ばれた条約で、正式には日本国との平和条約といいます。

1945年に日本はポツダム宣言を受諾し、降伏文書に署名していましたが、それ以降も戦争状態は継続していたという扱いでした。

このサンフランシスコ講和条約の発行によって、国際法上、日本と連合国の間の戦争状態は完全に終結したとされます。これによって日本国民は完全に主権を回復したと連合国によって承認されました。講和の内容の要旨は以下のとおりです。

  • 戦争状態の終了
  • 日本国民の主権回復
  • 朝鮮・台湾の独立および権利の放棄
  • 南洋諸島などの領土・権利の放棄
  • 賠償は役務賠償とし、賠償額は個別交渉(役務賠償とは、労働力の提供などの形で賠償することです。ただし、戦争被害に対する補償とは呼べないホテルやリゾート建設など、ヒモつき援助だったという批判もあります。※結果的に日本のアジアへの経済進出につながったため)

当時の吉田茂首相は、朝鮮戦争が勃発したタイミングを[有利な講和を結ぶチャンス]だと考え、秘密裏に外務省に講和条約のたたき台を作らせたそうです。

経済交渉という建前で講和条約案を持たせた池田勇人をアメリカに送り込み、講和締結の促進を図ったとされています。

ちなみにソ連と中華民国はこの条約に調印していません。アメリカは当時、中華民国(後の台湾)の蒋介石を中国代表としていたのですが、ソ連は中国共産党(中華人民共和国)をバックアップしていたという背景があったためです。

神武景気(じんむけいき)

神武景気は、1955年~1957年、日本が経験した爆発的な好景気です。、朝鮮戦争による特需で日本経済が大幅に拡大されたことにより発生したとされます。

これによって日本経済は第二次世界大戦前の水準に回復し、戦後復興は完了しました。(1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」と記されました。)

衣料製品は綿などの天然繊維から、ナイロンなどの合成繊維の開発による新商品が急速に売れるなど、消費も質的な変化を遂げます。三種の神器(冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビ)という言葉が流行し、大衆消費社会が幕を開けます。

ボトルネック現象

民間の生産資本の増大テンポが早まると、今度は社会資本の拡充テンポが追いつかなくなりました。国鉄の貨物輸送力不足が目立つようになり、輸送道路の整備が遅れ、港では船が混雑、荷役能力の不足などが次々と表面化し、通貨も滞るようになります。

また、好景気による輸入増加で当時の少ない外貨準備(約20億ドル)はたちまち減っていき、外貨危機が訪れます。そのため政府は金融引き締めなどの景気抑制に移らざるを得ませんでした。(当時のこうした好景気の限界のことを国際収支の天井と呼びます。)

そして景気は減退していきました。(ただし、不況はそれほど長引きませんでした)

岩戸景気と日米安保改定

岩戸景気

池田勇人1958~1961年の好景気を岩戸景気といいます。景気拡大期間は神武景気の31ヶ月を超え、42ヶ月に達しました。

岩国、新井浜、四日市、川崎に巨大なコンビナート(計画的に結び付けられた企業集団・工業地域のこと)が形成され、日本は重化学工業を発展させていきます。また、生産技術は急速に進歩し、行程の高速化に成功します。

岩戸景気によって、若年サラリーマンや労働者の所得が一気に上がり、中流階層がマジョリティとなります。中流家庭は大量消費社会を作り上げる土台になりました。大量生産、大量消費の時代となり、スーパーマーケットなどの大型店舗が出現し、流通の構造が大きく変わりました。また、好景気と平行して電化製品ブームが続き、ステレオや応接セットなどが中流以上の所得世帯に普及していきます。

岩戸景気は「投資が投資を生む」過剰な投機熱による技術革新によって支えられ、また設備投資が景気を引っ張り、順調に発展しました。企業の設備投資が別の企業の設備投資を招いたのです。

1960年、池田勇人首相は所得倍増計画を打ち出し、日本経済は予想以上の成長を遂げますが、1960年度末には安定していた物価も上がりはじめ、景気も後退していきます。神武景気と同じく、インフラの遅れなどによるボトルネック現象と金融引き締め策の発動によるものです。(この不況も軽微なものでした。)

日米安保改定

岩戸景気のさなかに大きな事件がありました。1960年の日米安保の改定です。

1951年、吉田茂首相によって米国との間に安保条約(旧安保条約)が締結されます。この条約は日米間の同盟の根幹となる条約で、1960年ワシントンで改定されました。改定されたものは60年安保と区別されて呼ばれることもあります。日本とアメリカの安全保障のために在日米軍の駐留を認めるなどの内容となっています。

日米安保にはさまざまな議論がありますが、日本が国土の防衛をアメリカに一任できるようになったことで軍事費を抑え、経済政策に優先的に配分可能となったという側面は無視できません。そういった意味で、池田内閣の所得倍増計画は日米安保ありきの政策でもあります。

国民所得倍増計画

池田内閣による国民所得倍増計画は経済学者の下村治によって立案されました。

目的

  • 輸出の拡大によって外貨を獲得
  • それによって国民総生産(国民所得)を倍増させる
  • さらに完全雇用を目指し、生活水準を引き上げる
  • 農業や中小企業の近代化、経済的な後進地域の開発により、地域間・産業間における格差の是正を推進

結果は、計画開始1年目にして目標達成、その後も驚異的な経済成長率をたたき出しました。

オリンピック景気

1964年に東京オリンピックが開催されることが決まり、交通網の整備や競技施設が必要となりました。1963~1964にかけての好景気をオリンピック景気と呼びます。

東海道新幹線、首都高速、国立競技場、日本武道館などが整備され、建設需要が高まったことに起因します。オリンピックを見るためにテレビを買うなど付随する経済効果もありました。

オリンピックが終わると、特別な建設需要やテレビ需要がなくなり、不況(証券不況)がやってきます。

証券不況

オリンピックの翌年(1965)に、深刻な不況が訪れます。これは証券不況と呼ばれました。

成長を前提とした経営が行き詰まり、山一證券が赤字に、サンウェーブや日本特殊鋼が倒産、さらに山陽特殊製鋼が負債総額五百億(当時最悪)で倒産します。証券会社の決算は軒並み赤字となります。

山一證券を救うために日銀特融(無利子、無担保、無制限の日銀特別融資)が閣議決定されます。戦後初の赤字国債発行です。

この際日銀は国債発行をかなりためらったそうですが、結果的にはその後いざなぎ景気という好景気が到来し、高度経済成長は持続することになります。

※この証券不況の影響で、証券会社は登録制から免許制になりました。

いざなぎ景気と高度経済成長の終焉

高度経済成長東京オリンピック後の証券不況を受けて、1966年、日本政府は戦後初の赤字国債発行に踏み切ります。

そして景気は回復し始め、いざなぎ景気がはじまります。

いざなぎ景気

いざなぎ景気は、1966~1970年にかけての好景気です。

トヨタカローラや日産サニーなどの低価格で性能の優れた自動車が発売され、マイカーブームが始まり、東京オリンピックをきっかけにカラーテレビの普及率が一気に高まります。

3C(car[自動車],cooler[冷房],colorTV[カラーテレビ])という言葉が流行し、所得水準の上がった庶民の需要が大幅に伸びて景気を支えていきます。(3Cは新・三種の神器とも呼ばれます) ベトナム特需(1960年代後半~70年代前半のベトナム戦争によって発生した需要)なども手伝って、日本のGNPは先進国を一気にごぼう抜き、世界第二位の経済大国にのし上がります。

それまでの好景気は、国際収支の悪化(輸入超過)により外貨準備が減少するため、金融引き締めなどの景気抑制政策が必要でした。(国際収支の天井)

いざなぎ景気では、輸出による大幅な貿易黒字により国際収支の天井はなくなりました。

高度経済成長の弊害と終焉

急速に経済成長した時期を高度経済成長期と呼び、日本では1955~1973年の18年間とされます。

経済成長には戦争特需やオリンピック・万博特需などの要因がありますが、他には主に以下の理由があげられます。

  • 質が高く安価な労働力
  • 余剰農業労働者の活用
  • 貯蓄率が高い(貯蓄は投資の源泉に)
  • 円安の固定相場が輸出に有利に働いた
  • 消費の大幅な拡大
  • 安価な石油
  • 護送船団方式による銀行の信用の高さ・安定した間接金融
  • 池田内閣による所得倍増計画
  • 政府の設備投資促進策による工業用地
  • 戦時中にすでに高レベルにあった生産技術(敗戦によって再び遅れるものの、キャッチアップ)
  • 個人より集団を重んじる和の精神?(という説が挙げられた時期もある)

経済成長の弊害

経済成長のスピードは目を見張るものがあったのですが、あまりにも早いとその速度に社会インフラなどの整備の追いつかないといった弊害があります。

たとえばマイカー時代になったのに道路網の拡充が追いつかず、交通渋滞がひんぱんに起きたり、交通事故被害件数が急激にに高まったりしました。

また、名目所得があがったものの、土地の値段がそれを上回る率で上がったため、多くの給与所得者は遠隔地郊外に居を構え、満員電車・通勤地獄というパターンができてしまいます。さらにGNPの拡大に比例して産業廃棄物が増大、日本各地で公害が噴出、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの公害病問題が深刻化しました。

日本の輸出が増大すると、その大口の顧客であるアメリカの国際収支は赤字化、貿易摩擦が激しくなります。これは後のニクソン・ショック(1971)につながり、結果日本の国際競争力の急激な上昇は抑制されました。

1970年3月の大阪万博が終わると、景気後退色が明らかになります。公定歩合が三度引き下げられ、公共投資も行われましたが景気は回復せず、民間設備投資・住宅投資は落ち込みます。

1971年のニクソン・ショックによる円の切り上げは国際収支の過度な黒字を抑え貿易摩擦は一時的に収束しましたが、1973年に第4次中東戦争が勃発し原油価格が高騰したことで、オイルショックが発生、日本は戦後初の実質マイナス成長を記録します。

これによって日本の高度経済成長は終焉、安定成長期(1973~1991)へと移行しました。

オイルショックと低成長期

石油危機1971年のニクソン・ショックの後、ふたたびドル危機が訪れると、固定相場制の維持ができなくなります。1973年、日本を含む先進各国は変動相場制に移行しました。

時期はさかのぼり1972年、佐藤内閣に変わり田中角栄内閣が発足します。田中角栄元首相は日本列島改造論を打ち出します。

日本列島改造論

日本列島改造論は、田中角栄による以下のような主張です。(著作名でもあります)

  • 日本列島を高速道路、新幹線で結ぶ
  • それにより地方の工業化の促進、過疎と過密を解決
  • そのころ深刻化していた公害問題も同時に解決
  • 日本の北部を工業地帯に、南部を農業地帯にすべき

田中角栄は新潟出身であり、豪雪地帯の貧困解消は彼の悲願だったといわれています。北部を工業地帯にという部分は、建前はアメリカやイタリアがそうだからとしていますが、単に田中の地元が新潟で日本の北部に該当するからと思われます。

日本列島改造論は、従来の政策を上回る超高度成長政策でしたが、開発の候補地とされていた地域で土地の買占めが行われ地価が急上昇、さらにその影響で物価が上がりインフレとなりました。

また、日本列島改造論の柱である新幹線をめぐって、候補となった地域の国会議員が誘致活動などを展開しようとした矢先にオイルショックが発生、1973年には物価高が深刻な社会問題となります。

オイルショック(石油危機)

1973年10月、第四次中東戦争が起き、OPEC(石油輸出国機構)加盟中のペルシャ湾岸の産油国が、原油公示価格を70%引き上げることを表明します。

さらにOAPEC(アラブ石油輸出国機構)が原油生産の削減を決定、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ・オランダetc)への石油輸出の禁止を決定しました。

OPECによる値上げの表明は2度行われ、最終的に1バレル3.01ドルから11.65ドルまで引き上げると決定されました。

石油価格の大幅な上昇は、エネルギーを石油中心としてきた先進諸国の経済に大きな影響を与えることとなります。ニクソン・ショックから回復の兆しを見せていた日本経済にも大打撃を与えました。

列島改造ブームによる地価上昇ですでに急速なインフレが発生していたところに、オイルショックでさらに便乗値上げが起きインフレが加速、1974年には消費者物価指数は23%上昇し、これは狂乱物価と呼ばれました。

政府はインフレ抑制のために公定歩合の引き上げを4度行うなどして、企業の設備投資の抑制・物価の安定を図りましたが、たいした効果が得られず失敗に終わります。

1974年、成長率はマイナス1.2%を記録し、それは高度経済成長の終焉を意味しました。(戦後初のマイナス成長)

オイルショックの影響で、トイレットペーパーの買占めやデパートのエスカレータの運転中止など、意味不明な社会現象も起きました。また、優良企業は銀行離れをはじめました。これまで主流だった間接金融から株式発行などの直接金融へシフトし、内部資金依存するようになります。

このオイルショックを契機に、先進諸国は慢性的なスタグフレーション(不況でしかもインフレ)に悩まされることになります。景気回復のために財政政策を行おうとするとインフレが進み、インフレを抑えるために金融引締めなどの景気抑制策を取ると不況がさらに悪化してしまうというジレンマに立たされるという状況です。

上記のジレンマに、石油価格の高騰による経常収支の大赤字も加わってトリレンマ(三重苦)などとも言われるようになりました。先進7カ国の首脳はこの事態を打開するためにサミットを毎年開くことになりました。これはG7(Group of 7)と呼ばれ、フランス、アメリカ、西ドイツ(ドイツ)、イタリア、日本、カナダ、イギリスを指します。後に米大統領のクリントンの示唆によりロシアが加わりG8になります。

1974年12月、田中首相は金脈問題で総辞職、三木武夫が自民党総裁となり、三木内閣が組閣されることとなります。

日本政府は不況からの脱出のために1975年度以降、毎年のように赤字国債を発行するようになります。あらゆる企業は輸出へシフトし、ロボットなどの開発により生産の自動化が進みます。さらにパソコン、ファックス、ワープロなどのOA(オフィス・オートメーション)機器が導入され、産業の形態が少しずつ変化していきます。そんな中で景気は1978年あたりから回復しはじめました。

第二次オイルショック

1978年、OPECが「翌年から原油価格を値上げする」と決定しました。さらに1979年、イラン革命が起き、イランでの石油生産が中断。結局原油価格は前回のオイルショック並みに上昇し、イランから大量の石油を輸入していた日本には大きな影響があると予想されました。

しかし、第一次オイルショックで学習していた日本はスタグフレーションには陥りませんでした。

原油の備蓄量は前回オイルショックの二倍ほどあり、民間の労働組合が賃上げを自粛するなどの対策が功を奏し、諸物価へのインフレ波及は免れます。

また、製造業は生産面で省石油、省エネルギーを進めており、輸入によるインフレ圧力を企業の内部で吸収、軽減させることができました。

最終的には値上げはそれほど長引かずに、イランも石油販売を再開、数年後には価格下落に転じて、危機は免れました。

第二次オイルショックは、日本企業の経済の適応力の高さを世界に印象付けました。

新保守主義(ネオコン)の台頭と円高不況

新保守主義(ネオコン)と新自由主義(ネオリベ)

ネオコン1980年代から、新保守主義(ネオコンサバティズム、通称ネオコン)が台頭するようになります。代表的な政権はイギリスのサッチャー政権、アメリカのレーガン政権、日本の中曽根内閣です。

新保守主義とは、行政サービスや社会保障を民間に解放してできるだけ削減し、効率を優先、小さな政府を目指す方向です。対外的には主権侵害に対しては武力介入も辞さない態度を取ります。とくに小さな政府や民営化、大規模な規制緩和、市場原理主義などの経済思想は新自由主義(ネオリベラリズム、通称ネオリベ)と呼ばれます。

新保守主義と新自由主義は字面だけみると対義語のように見えますが、新保守主義は広義の政治的スタンスを意味するもので、新自由主義は経済思想に特化した表現といえます。たとえば中曽根政権や小泉政権はネオコンであり、ネオリベ政策を推し進めました。

昨今では、ネオリベとか市場原理主義という言葉は非常に評判が悪く、聞いた瞬間に親のカタキのごとく拒否反応を示す人も多いようです。 過去政権の功罪については未だにさまざまが議論が行われており、テレビ番組の司会者でさえ自らのイデオロギーを背景に話を推し進めるので、問題が非常にややこしくなりやすく、注意が必要です。

レーガノミックス

70年代の二度のオイルショックによって世界は不況が同時に進行し、先進各国はその打開策を見出せずにいました。スタグフレーション(インフレ下での不況)は、従来のケインズ政策ではインフレが進み、金融引締めをすると不況が悪化するというやっかいなものだったからです。

そんな中アメリカのレーガン大統領は、レーガノミックスと呼ばれる一連の経済政策を取りました。

1981年カーター政権に代わり、レーガン政権が発足、レーガン大統領は前政権から受け継いだスタグフレーション状態からの回復のために、インフレの抑制と失業率の改善を主眼とした政策を推し進めます。

レーガン政権は、金利の引き上げなど厳しい金融引締め政策を行いインフレを克服。さらに福祉予算などの歳出を削り財政赤字の縮小、大幅減税に踏み切ります。公共部門は縮小し、民間企業の活性化を図りました。

結果

高金利政策はドル高を招き、ドル高は輸出の減少、輸入の増加を促進させました。結果、インフレ率は低下したものの財政赤字、貿易赤字は深刻に。経済成長は低迷し、失業者数は戦後最悪となります。

1984年、失業率は低下し景気は回復の兆しを見せましたが、貿易赤字は拡大し続け、日本やヨーロッパの経常黒字は大きくなってしまい、レーガン政権は批判を浴びました。

いっぽう、日本の中曽根政権では「行政改革」が行われ、内容的にはレーガン政権と似ており、医療や年金などの社会保障費を削減、受益者負担の増額が行われました。また、国鉄はJRに、電電公社はNTT、専売公社はJTに民営化されました。

プラザ合意

レーガン政権の金融引締め政策の流れで金利は二桁に達し、世界中の通貨はアメリカに集中、ドル高となります。その後、インフレが沈静化すると金利は低下、また貿易赤字が深刻になっていたためドル需要は下がり、ドル相場は不安定になります。

1985年、先進各国はニクソン・ショックのような出来事の再発を恐れて、協調的なドル安に誘導することで合意します。この合意は、もっとも懸念されていたのが対日貿易赤字だったことから、おもに円高ドル安に誘導する内容だったようです。

プラザ合意の発表の翌日、米ドルは1ドル235円から約20円下落し、翌年には120円台で取引されるまでになりました。

円高不況(1983~1987)

日本は円高により不況となります。輸出中心の中小企業はこの不況でとくに苦しみました。

輸出中心の経済国である日本は円高になると為替差損が増大し、利益が減少した企業は社員の給与の減額や、商品の価格の値上げなどに転嫁します。結果、国内需要が減少し不況へと向かうというのが円高不況の構造です。

1986年あたりから政府主導で超低金利政策が採られるようになり、これらの不況対策により状況は好転していきます。

バブル経済とその崩壊

バブル経済(バブル景気)

バブル経済バブルとは、投機などの過熱によって資産価値が実質価値をはるかに超えるほどに高騰し、その後急激に投機熱が下がり資産価値が下落するといった現象のことです。

泡が膨れ上がり突然はじける様に似ているためバブル景気、バブル経済と呼ばれます。通常日本でバブル景気というとき、1986~1991年の好景気期間のことを指します。

1985年のプラザ合意をきっかけに、中曽根首相は内需の拡大を宣言、それまでの緊縮財政から公共事業の拡大政策をとりました。円高不況を是正するためにとられていた低金利政策は、解除すると円高を招いてしまうので継続されました。

そして中曽根税制改革によって、法人税は42%→30%、所得税の最高税率は70%→40%へと大幅減税が行われます。物品税も廃止されました。

その結果、国家税収がそれまでの三分の二になった代わりに富裕層の所得が増大し、彼らは資産を土地や株式への運用に向けます。企業の財テクもさかんになっていきました。

さらに規制緩和・国営企業の民営化、日経新聞などが財テクを煽るなどの背景も手伝って、投機熱が加速、バブル経済が始まります。

株と土地への投機が盛んになり、土地は必ず値上がりするという土地神話が生まれ、多くの人が転売目的で売買に参加するようになります。

地価は異常な値上がりを見せ、数字上では東京23区の地価でアメリカ全土が買えるほどになりました。(銀行は土地を担保にがんがん貸付を行いました)

マイホーム主義の日本では、土地の値上がりを恐れて一戸建ての購入をいそぐ人が増え、それがさらに地価の上昇に拍車をかけました。逆に新居購入のために貯蓄していた家庭の中には値上がりのため購入をあきらめる人々も多く、彼らは浮いたお金で新車購入や旅行など大きな消費をするようになりました。そんな流れの中で、骨董品などの消費ブームが巻き起こります。

1986年になると、日本企業による欧米企業に対するM&Aがかなり進みます。三菱地所はニューヨークの象徴であるロックフェラーセンターを買収し、このころには世界中で日本脅威論が叫ばれました。

バブルの問題点

バブル経済では、インカム・ゲイン(資産を用いた経済活動)ではなくキャピタル・ゲイン(資産の値上がりによる差益)による収益を目指す手法ばかりがとられました。企業は本業より財テクに熱心だったほどです。

資産価格が高い金額で均衡すると、それ以上上がることはなくなり価格は下落していくことになります。資産価値の上昇が困難になった時点で、資産取引がトランプゲームのババ抜きのような性格に変わっていき、キャピタル・ロス(含み損)をいかに少なくするかがテーマになってしまいます。

そして、株価や地価は一気に下落、急激な景気後退に向かいます。

バブル崩壊

1989年、日銀は公定歩合を6度にわたって引き上げバブル潰しをはじめます。また政府が1990年に行った総量規制がバブル崩壊の引き金となります。(ただし、バブル崩壊の要因はバブルそのものであり、これらのことはそのきっかけにすぎません)

総量規制とは、大蔵省銀行局から通達として出された【土地関連融資の抑制について】のうちの内容のひとつです。

これは「金融機関は不動産向けの融資残高を、貸出し残高の伸び率より少なくしろ」というもので、これによって土地を担保にした融資の拡大が抑えられることになりました。行き過ぎた地価の高騰の沈静化を狙ったもので、その目的は達成されたのですが、結果的に急激な景気後退を招いてしまいました。

日経平均株価は1989年の38915円をピークに暴落し、1990年10月には20000円を割り半値近くになります。

地価も下がり続け、バブル景気時代に土地を担保に行われた貸付は担保割れし、各事業会社の収益は大幅に下がり、銀行は大量の不良債権を抱えることになりました。不良債権により銀行の経営は大幅に悪化し、1990年代にその負の遺産は引き継がれる形となります。

政府は大手の金融機関は破綻させない方針をとっていましたが、1995年頃から不良債権の査定を厳格化し、経営状態の悪い金融機関も破綻再生処理にとりかかりました。

その後、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行、山一證券が破綻、これらの銀行をメインバンクとしていた企業も倒産の危機に瀕するか、あるいは倒産しました。

銀行は融資に必要以上に慎重になり、貸し渋り(健全な企業に対して新たな融資の拒否すること)と貸し剥がし(既存の融資を強引に引き上げる)が頻発するようになります。これは景気の悪化を加速させました。

銀行の方からすすめて行った過剰な融資を、今度は問答無用で強引に引き上げるという貸し剥がしは、銀行の信用を著しく低下させる結果となります。

バブル崩壊以降、日本は平成不況(失われた10年)と呼ばれる慢性的な停滞に陥ります。

失われた10年

就職氷河期バブル崩壊後の1993~2002年までの不況のことを、失われた10年と呼びます。(平成不況とも)

この不況は戦後の日本経済史上最長です。その後の景気回復も本格的な好況にならないまま世界同時不況に巻き込まれてしまったため、20年以上不況が続いているという見方もあります。

1990年代の後半以降、優良企業は有利子負債の圧縮を進めるようになります。

戦後の高度経済成長時には、日本企業は過剰なレバレッジ(自己資本比率が低い)体質だといわれていましたが、この財務体質が根本的に改善されるようになりました。

これらの企業の行動は景気停滞の要因ではあったものの、財務基盤が強化された強力な企業群が形成されるという側面もありました。

しかし企業が採用を削減したことから、世代人口の多い1970年代生まれは深刻な就職難に直面、就職氷河期と呼ばれる時代が続きました。また、不況が長引くとデフレが発生し、賃金は下がり続け、非正規雇用が増加します。

デフレによって、コストパフォーマンスの良い(低価格で高品質)商品を提供する企業が増えたという側面もありました。ユニクロや100円均一、食べ放題などバブル以前にはなかった真新しいサービス・販売方法が確立されていきます。

失われた10年の原因にはバブル崩壊に伴うさまざまな要因がありますが、外的なものに1992年のポンド危機、1994年のメキシコ危機、1997年のアジア通貨危機などがあります。

また、大手金融機関の不良債権処理の先送りによる度重なる破綻は市場に大きなショックを与えました。

破綻した銀行と証券会社

  • 兵庫銀行
  • 住宅金融専門会社
  • 太平洋銀行
  • 阪和銀行
  • 京都共栄銀行
  • 三洋証券
  • 北海道拓殖銀行
  • 山一證券
  • 徳陽シティ銀行
  • 日本長期信用銀行
  • 日本債権信用銀行
  • 国民銀行
  • 幸福銀行
  • 東京相和銀行
  • なみはや銀行
  • 新潟中央銀行
  • 石川銀行
  • 中部銀行
  • 足利銀行

いざなみ景気と金融危機

リーマン2002~2007年の景気拡大の時期は、俗にいざなみ景気と呼ばれます。

名称については、いざなみ景気のほかに「かげろう景気」「リストラ景気」「格差型景気」「無実感景気」などが提案されており、どれもネガティブなのが特徴です。

2001年以降のゼロ金利政策をはじめとする金融緩和政策に伴う円安、また新興国などの需要の増大などにより、輸出関連企業の売上が過去最高水準となります。これらが景気回復の主要因とされています。(※1 ページ下部参照)

この好景気では、名目GDPは21兆円増えているのに、全体の所得が4兆円減っているという奇妙なことが起こっています。これは政府による公共事業の減少、企業のレバレッジ投資(借金による設備投資)が減ったこと、日銀の金融緩和策が不十分だったことなどが原因に挙げられています。

実質経済成長率は年平均2%に達せず低水準、さらに名目経済成長率は実質成長率より低くデフレから抜け出すことはできませんでした。

世界金融危機

2006年夏、アメリカの住宅価格が下落し、サブプライムローン(信用度の低い人向けの住宅ローン)の返済の延滞率が上昇、アメリカの住宅バブルが崩壊します。

サブプライムローン担保証券として証券化され、さらに他の金融商品などと組み合わされ再証券化され、投資家向けに金融商品として販売されていたものが信用を失い、市場で投売りされるようになります。

2007年半ば、原油価格の高騰によるコスト上昇で企業は収益が悪化、サブプライム問題の拡大によって金融機関の信用収縮が連鎖、世界規模の金融危機が発生、日本の輸出は減退します。

リーマン・ショック

2008年9月、アメリカの名門投資銀行であるリーマン・ブラザーズが負債総額約64兆円という史上最大の倒産に至り(リーマン・ショック)、これを引き金に金融危機は連鎖し世界的なものになります。日本経済もこれを受けて深刻な不況に突入してしまいます。

日本における政権交代

2009年、麻生政権は中小企業の資金繰りの悪化を懸念し、金融機関に直接資本を注入するなどの方策を取り、景気刺激策として定額給付金の給付を行います。

定額給付金は結果的に生活の補助などの意味合いが強くなったものの、これらの政策は一定の効果を上げ最悪の状況は脱したかに思われました。

2009年8月31日、衆議院選挙が行われ麻生自民党は敗北、鳩山民主党政権が誕生します。

民主党政権は年間5兆円の予算をかけた目玉政策として子ども手当を掲げましたが、貯蓄に回りやすい性質の給付による乗数効果は1以下になるのは明らかで、その経済効果には疑問符がついています。

(※1)エフさんより「2001年度以降、輸出依存度が急上昇しておりそれが景気回復要因となっている」とご指摘いただき、記事を若干修正しました。エフさんありがとうございました。